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帰りは帰りでやっぱり俺はダメな人間で
広夢様にぎゅっとしがみついたまま俯き加減で
そして少し来た時よりも足早に歩くことに集中して帰った。

「彩、」
帰りつくまで車の中でもずっと
無言だった広夢様に呼ばれた。
「はい。」
やっぱり呆れられているのか。
呆れるだろう。
所有者が所有物に振り回されるなんて
気分のいいものでもないだろう。
家(と呼ばれていたところ)で俺は
感情を出すと殴られて蹴られた。
泣いたり、喚いたり、笑ったり、
そういうのは暴力の原因でしかなかった。
なのに、そういうのが染み付いていたはずなのに、
俺は広夢様の前で泣いてしまった。
呆れられて当然だ。
「すみません。」
「まだなんにも言ってないんだけど?」
「すみません。」
「おうむみたいだね。
 なにあやまってるの?」
「俺は・・・だめな人間だから・・・」
「人間って自覚あるんだ?」
「っ・・・!すみません。」
「ばかにしたのに謝られてもリアクションに困るなあ。」
「すみません。」
「すみませんは聞き飽きた。
 この問答にも飽きた。
 それより彩、」
「はい。」
「俺にキスして。」
「え?キス?」
「なに、嫌なの?」
「そんなこと、ありません。
 俺が・・・俺なんかが・・・広夢様に?」
「それももう飽きた。
 するの?しないの?」
「させて・・・頂きます。」
「じゃ、はい。」
手前の椅子に座って目を閉じた広夢様に近づく。
薄茶の美しい瞳を閉じてもなお長い睫毛が美しい人。
鼻筋が通っていてひとつの隙もないギリシア彫刻のような人。
ちゅ。
口付けたのに広夢様の瞳は閉じられたままだった。
「広夢・・・様?」
呼びかけてようやく目を開けた広夢様は俺を見て
びっくりしたみたいに目を見開いてそして・・・大笑いした。
「広夢様?」
「はははははあははははははっ!」
呼びかけても笑うのに忙しくて返してはくれない。
「広夢様・・・」
「はははははははははあははあははははははっ!」
「・・・」
「あはははははははっ・・・はは・・・はあ・・・はあっ・・・」
「・・・」
「俺、キスしろっていったよね?」
「あ、はい。すみません。」
「語尾にいちいちすみませんつけないでよ。
 なんでしなかったの?」
「しま・・した・・・。」
「したってあれ?
 ほっぺにちゅう?」
「あ、はい・・・キスって言われたので。」
「あんなのキスに入らないよ。
 なんで目、閉じてんのにわざわざ頬なんだよ。」
「・・・・違いましたか?」
「はははっ・・おまえ・・・違うだろ。
 キスって言ったら唇だろ。
 おまえ本気でそれだから笑えるけど
 俺とキスしたくなくてそうしたんだったら
 俺は傷つくなあ。」
「えっ!そんな!そんなことないです!俺はっ・・・」
「俺は?」
貴方が好きです。
と言ってしまいそうになって慌てて止める。
所有物の分際でなんとおこがましいのか。
「俺は・・・俺なんかが広夢様にそんなこと、」
「ふうん。いやじゃなかったってこと。」
「も、もちろんです。」
してもいいならしたかった。
だからそんなことを俺に言わないで欲しい。
俺は広夢様に求められているのだと勘違いしてしまう。
「彩、おまえキスくらいまともにできなきゃ
 他になんにもつかえないんだけど。」
「え?」
「おまえなんかいなくてもこの屋敷はそつなく回ってる。
 林と使用人がいるだけでもう他に人員は必要なかったんだ。」
「あ・・・」
「だから俺の遊び相手くらいになってもらおうと思ったんだけど
 おまえキスもろくにできないしさ。」
「すみません。」
俺はほんとうにダメな人間だ。
俺はほんとうに不必要な人間だ。
「そこで謝られるとどうしようもないんだけど?
 なに?そのすみませんってどういう意味なの?
 俺のおもちゃにはなれませんすみませんってコト?」
「そんな・・・そうじゃないです。
 俺がダメな人間だから、だから、」
「ダメかどうかは俺が決める前置きみたいに言うな。」
「広夢様?」
「言ったろ、初めに。
 俺がオトコ相手に性欲わくか実験するくらいには
 役立ってもらうって。」
「せい・・よく・・・?」
「どこまで実験できるかは俺次第だけど
 彩も少しは協力してくんねーと雰囲気すらつくれねぇし。」
「雰囲気・・・あの・・・俺はなにをすればいいですか?」
こんな俺でもまだできることがあるのですか?
「解って聞いてんの?
 オトコ相手に、俺相手に、エロいことできんの?」
「なにを・・・どうすればいいのか・・・知識がないので
 言ってくださればなんでも・・・」
「なんでも?」
「なんでも、です。」

貴方に捨てられるくらいなら死んだ方がましだ。
貴方に命じられることならなんだって命だって惜しくない。
「貴方のためならなんでも、」
ああ、どうしよう。とまらない
どうして俺はこの人にこんなに惹かれて止まないのか。
いやなら突き飛ばして罵って死ねと命じてください。だから。
「できんじゃん。」
ほんとうは初めからそこにしたかった口付け。
そっと形のいい唇に触れたらそう言われた。
飴色の瞳を優しく細めて笑ってくれた。
ああ、よかったと離そうとした唇がふいにくっついた。
「まだキスとは言えないよ。」
立ち上がった広夢様に肩をつかまれて上から強く唇を重ねられる。
あ・・・。
唇をこじあけて舌が入ってくるのが解る。
熱くて、柔らかくて、少し甘くて、息が詰まる。
「はっ・・む・・・ん・・・」
「はぁっ・・・・」
これがキス?
これはキスなんだろうか?
頭の芯がしびれて熱に浮かされたような気分。
この綺麗な人と俺なんかがこんなことをしている。
そう思うと、身体熱がたまってどうしようもない気持ちになる。
「あっ・・・んんんっ・・・」
「はむっ・・・」
これ以上されると身体の力が抜けて立っていられそうもない。
それより何より、身体が反応し始めるのが解る。
オトコ相手にエロいこと、と広夢様は言った。
俺は、できるんじゃないかと思う。
ぐらり、と力が抜けた体が崩れた。
「彩っ」
その身体を広夢様が抱え込むようにして支えた。

俺はなんでもできるよ広夢様。
俺はなんでもできるから広夢様。
こういうことじゃなくてサンドバックにでもしてください。
こんな甘いのなんて俺には不釣合いだしそれよりなにより
広夢様が穢れてしまう。
広夢様を汚してしまう。
「広夢様、」
「腰、くだけるほとよかった?」
「広夢様・・・」
「いまのがキスだよ。
 彩からあれくらいできるようになれば及第点。」
「広夢様。」
「ぼーっとした顔してる。
 ちょっとは可愛げあるじゃん。
 今日はここまでにしてあげるよ。
 キスうまくなるには舌でさくらんぼのへた結ぶ練習するといいんだってさ。」
長身のアポロ彫刻のように美しい人はそういって笑った。

その顔が美しくて
そのキスが甘くて
心も身体も呆としているのに熱くて熱くて熱くて
熱がたまってしまった自身が収まるまで待てそうになくて
俺は部屋に戻るなり自身を解放した。たった数回掻いただけであっけなくイった。

美しいあの人を想像してイったのだ。
あの人を汚したような罪悪感しか残らなかった。

俺はあの人が好きなのだ。
俺はあの人が欲しいのだ。
所有物と言われるのが嬉しい。
できることがあるのなら嬉しい。
あの人に触れられるのが嬉しい。
あの人にキスできるのが嬉しい。
あの人が笑ってくれるのが嬉しい。

でも、かんちがいするな、それは愛ではなく、実験だ。
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あまり気にしてはいなかったのに
消えないこの痣たちのことが鬱陶しくてたまらなかった。
だって消えないと彼に、広夢様に逢うことができないのだ。
部屋に閉じ籠っている間いろんな、ほんとうにいろんなことを考えた。

あの言葉は、俺を捨てるための口実ではないか?
すでにもう、俺なんか見限ったという意味ではないか?
俺なんかいらないとあの時決断を下されたのではないか?

痣が治ってあの人の前に立った時、自分はどんな決断をくだされるのだろう? 

俺は痣が消えることを望みながら
この痣が消えることを恐れている。

「随分薄くなりましたね。
 明日には広夢さまにお逢い出来ますよ。」
食事を持ってきてくれた執事の林さんが優しく告げた。
広夢様に逢った日から、広夢様と逢わなくなってから、約1ヶ月が過ぎていた。

「ちゃんと引きこもってたんだ?1ヶ月も?」
「はい。」
「なにしてたの?」
「なにも。」
「なにも?」
「少し、いろいろ、考えていました。」
「へえ。なにを?」
「これから俺はどうなるんだろう、と。
 広夢様のお眼鏡に適わなかった俺は…」
「適わなかったって言ったっけ?」
「え?」
「適いはしなかったけど適わなくもないよ、彩。」
俺の新しい名を
俺の新しい名をくれた人が
ゆっくり、酷く優しく、呼んだ。
こんなに幸せな気持ちがあるのか。
「広夢さ・・・ま。」
「林はともかく歳も近そうなあんたに様とか呼ばれると
 なんかのプレイみたいでちょっと気持ち悪いな。
 いいよ。呼び捨てで。」
「そんな、」
「じゃーさん。さん、ね。いい?」
「はい。広夢さ…ん。」
「んじゃ彩、脱いで?」

1ヶ月前と同じ場所で
1ヶ月前と同じことを言われる。
1ヶ月前と違うのは脱いだ肌に痣がない。
痣がないだけで褒められた身体でもない。
あばらが見えてて骨ばったただの痩せた身体。

「うん。消えたみたいだね。」
「は、い。」
「歳いくつなの?
 親ですら覚えてないらしいけど?」
「たぶん10・・・7か8だと。」
「まじ?」
「もう少し上かもしれません。」
「俺よりさらに年上だとはね。
 小さいし細っこいし童顔だし。」
「すみません。」
「せっくす経験は?」
「え、セ・・・あ・・・ありません。」
まさかこんなことを聞かれるとは思わなかった。
「虐待っつっても育児ほーきと暴力ってことか?」
「あ・・・そうらしいです。」
「なんだよ他人事だなあ。
 自慰は?まさかないなんてこと無いよね?」
「あ、それは・・・あ・・・」
「やってみせてよ。いまここで。」
「え?」
「素っ裸なんだもん。ついでに、ね?」
「あ・・・」
冗談だろうか?本気だろうか?
薄い笑顔の真意が解らない。
人前でそういうことをするのは変なんじゃないか?
それとも俺がそう思っていただけで普通のことなのか?
「できない?」
「あ・・・」
「できないならいいよ。」
いい?
いらないってこと?
捨てられる?放り出される?
なんでもするから。なんでもするから。俺に呆れないで。
「でき・・・ます。」
俺なんかのこんな姿がなぜ見たいのか解らない
辱めたいのか、ただの興味か、他にもなにか理由があるのか。
握ったところで、
「もういいや。」
広夢さんの手が俺の手を止めた。
「あ、の・・・」
「服着て。」
「あ、で・・・でも・・・」
「いいから早く。」
「はい。」
再び服を纏った俺の手を取って
「お腹すいた。ラーメン食べに行こ。」
広夢さんが言った。

ムリだと思った。
俺は対人恐怖症すらまだ完全に治ってもいないのに
まして外出恐怖症は全く克服していないのにムリだ。
ここに来た時だってでっかい黒いトランクに入れられて運ばれて
着いた先がこの屋敷だったというだけで俺が外出した意識は無い。
なのに、それなのに、広夢さんは、
「ラーメンだよラーメン。食べに行くに決まってンじゃん。
 行列ができるほど人居るよ。排気ガスが充満してる繁華街だよ。」
はははっと笑う。
びくつく俺を力強く車の後部座席に詰め込むと「出して」ともう一度笑った。

解ってる。解ってるけど、止まらないんだ。止められないんだ。
さっきから俺の脚も手も背中も胸も痙攣してるみたいにブルブル震えてる。

「震えてるの?」
「あ・・・は・・・すみま・・・俺…」
「歯の音もあってないね。」
「すみま・・・すみませ・・・」
「外、どうして怖いの?」
「人が怖・・・て・・・知らないもの…ばか…で・・・」
「そりゃ他人ばっかだもん知らなくて当然じゃん。」
「何・・・され・・・とか・・・路地裏・・・とか・・・ひそ・・・」
「誰もおまえなんかになんかしようとなんてしないよ。
 彩、自意識過剰だなあ。
 考えてもみなよ彩が今まで引きこもって受けてた虐待
 それ以上の怖いことなんかそうそうこの世に落ちちゃいないよ。」
「ひろ・・・む・・・さま?」
「引きこもらずに逃げればよかったのに。
 外出恐怖症なんてただの妄想に過ぎないのに。
 ほら、ついたよ。降りて出かけよう。外の世界にさ。」

車の中は箱の中にいるようでまだそれでもましだった。
窓には黒いシートが張られていたから外と遮断されているようだった。
それなのにその箱が開けられて触れることの無かった外の世界とつながてしまった。
「ひろ・・・むさま」・・・すみま・・・せ・・・俺・・・む・・・」
「無理じゃない。おいでバカな子。」
広夢様の腕に抱えられて降ろされてしまった。
背が高く格好のいいこの人は力も強いらしく
俺がどんなに抵抗を見せようともものともしない。

「あ・・・」
眩しい。人がたくさんいる。怖い。怖い。怖い。
「俺といるんだから平気だよ。
 俺は人目なんか気にしないから好きにつかまってなよ。」
言われて俺はものすごく広夢様にしがみついていることに気付く。
そのうえぶるぶるぶるぶる震えているものだから必要以上に他人に見られている気がする。
「すみませ・・・すみませ・・・広夢様・・・」
「様付けにもどっちゃってるし。」
しがみつい引きずられるように少しずつ歩く。
誰かと一緒なんだ。
広夢様と一緒に外の世界を歩いているんだ。
怖いのに怖いけど少しずつだけど震えが小さくなるのか解る。

「ここだよ。」
というと行列ができたラーメン屋へ向かった。
行列を無視して広夢様はその脇の路地裏に入った。
俺は広夢様にさらに身体を寄せて目を閉じて進んだ。
段差を上る感覚があって薄目を開けると階段を登っていた。
行き着く先の簡素なドアを開けて入る広夢様に続いて入った。
「こんにちは。」
「越乃様いらっしゃいませ。
 お待ちしておりましたあちらへどうぞ。」
「ありがとう。
 いつもの2人分お願いします。」
「かしこまりました。少々お待ちくださいね。
 今、下へ言って参りますので。」
広夢様は俺を奥の個室になった席へ連れて行った。
「ひろむ・・・さま?」
「彩、よくがんばったから今日はここまで。」
「え?」
「行列並ぶのはさすがにハードル上げすぎだし
 俺は並ぶ気なんかまったくないからね。
 そのうえ狭いトコで縮こまって食べる気もしない。」
「あ・・・」
「でもここ美味しいから、
 トクベツな入り口とトクベツな席を用意してもらったってわけ。
 だいたいあんな調子じゃ彩、おまえまともに箸も持てそうにないし。」
「ありがとうございます。」
俺の言葉はこれでいいはずだ
俺のために広夢様は連れ出してくれたのだ。外の世界に。
「あんなに嫌がってたのに。」
くすりと笑った。
なんて意地悪でなんて美しい笑顔なんだろう。
「俺の・・・ためと・・・広夢様・・・」
「うぬぼれないでよね。
 外出もできないような所有物なんていらないからだよ。」
それはやはり俺のためだ。
俺が使える人間でいられるように。
俺が少しでも広夢様の役に立てるように。
「ありがとうございます。」
「やっぱ素直すぎてつまんないね。
 で、どうだった?」
「え?」
「外の世界は。」
「怖かった・・・です。」
「なにが?」
「なに・・・が・・・なにも・・・」
「じゃ怖いことなんかないじゃん。」
「人の目と・・・たくさんの人と・・・車・・・自転車とか」
久しぶりに目にしたたくさんの物事を並べてみる。
「なに?それらが彩になんかしたわけ?」
「してない・・・です。」
「してないでしょ。」
もう一度広夢様は美しくくすっと笑った。
「はい。」
「彩は自意識過剰なんだよ。
 誰も他人になんか関心のない第三者なんだよ。」
そうだ、俺だって不特定多数の人間に怯えているだけで
広夢様以外の人間に思い入れなんかないじゃないか。
「はい。・・・そうですよ・・・ね。」
「そんなもんだよ
 あ、ラーメン来た。食べるよ。頂きます。」
「いただき、ます。」
手はもう震えてなくて
心音ももう落ち着いてきてて
いい匂いと湯気に包まれて食べた。
俺はこんなに美味しい食べ物を知らない。
俺はこんなに意地悪で優しい人を知らない。
俺はこの日この人と食べたラーメンを死ぬまで忘れない。
ううん、死んでも忘れない。
「ラーメン食べながら泣くなよ。
 味わからなくなるでしょ?」

広夢様は箸を止めずに
空いた方の手で取り出したハンカチを俺に差し出した。
人に優しくされることに慣れていない俺はさらに泣くことしかできなかった。 


「失礼しました。」
彼の部屋に付属した風呂なので出口は当然彼の部屋がある。
彼は広い部屋の中央に置かれた真紅の大きなソファーに座っていた。
閉じられた何枚かの白い紙をぱらりとめくりながらゆっくりとこっちを見た。

着ている物も
その身のこなしも
髪や目の色もその存在も
すべてが優雅で美しかった。

どんな扱いを受けようとこの人ならいい。
どんな扱いを受けてでもこの人に仕えたい。
飽きたと言われたことに何度も恐怖を感じながらそう思った。

「こっち、来て。」
「はい。」
急に羞恥心が胸に広がった。
着る物がなかったので「脱げ。」と言われたときのまま
俺は全裸で痣だらけでみっともない裸のままなのだ。
「ふうん。」
彼はくんっと鼻を鳴らして俺の肩を嗅いだ。
「あの…」
「いいよ。ちゃんと洗ったみたいだね。いい匂い。」
「はい。」
自分が褒められたわけじゃない。
風呂に備わっていたシャンプーなどの香りを褒めただけだ。
「でも汚い。」
「え…」
「痣、汚い。」
「すみません。」
洗ったって落ちない汚い身体。
「服着て。もう見たくない。」
「あ…」
「そこに新しいの用意しといた。
 あんたの着てたの捨ててもいいよね。」
俺のことなんて好きにしていい人が
俺の着ていた服の処分に断りを入れるなんて。
「はい。ありがとうございます。」
嘗め回されるような視線を感じながら服を着た。
いい服だ。仕立ても、素材も、きっとセンスもいい。
「着たらここ、座って。」
ここ?彼の手はソファーの上、彼の座る横を叩いている。」
「え?そこは?」
「なに?俺の隣は不足?」
「とんでも…ないです。
 俺は…床でも…その…かまいませ」
「ふざけないでよ?
 俺の風呂で身体洗って、俺が用意した服着て、床に座る気?」
「あっすいません!」
「うざい。ここ座るの?座らないの?
 座らないならもういいよ出て行って。」
「すみません!失礼します!」
慌てて隣に腰掛ける。
「面倒掛けさせないでよね。
 ただでさえおまえの態度、いらいらすんのに。」
「す…すみません。ごめんなさい。」
「解ればいいよ。
 ね、あんた名前は?」
「   です。」
「へえ?苗字あるんだ?
 ねえ、その名前好き?」
対人恐怖症で外出恐怖症で家から出ない
家族には殴られ蹴られサンドバック呼ばわりだった。
誰も呼ばない。誰にも呼ばれることの無い名前だった。
「何も思い入れはないです。
 そういう名だと自覚したこともないです。」
「ふうん。じゃあ今日から俺が名前をあげる。
 そうだね体中いろんな色付いてるし
 色…とか?もうちょっとお洒落にだとそうだなぁ
 色彩の彩なんて響きがキレイな気がするけどどう?
 色彩の彩、サイ。うんいいかも。苗字はいらないよね。
 名乗る必要があるときは俺の苗字をつかえばいいよ。」
「さ…い…」
「そう。名乗るの遅くなったけど知ってるかな?
 俺は越乃広夢。あんたは今日から越乃彩。」
「越乃…さい?」
「これからはその名前が染み付くくらい
 呼ぶからちゃんと意識してなよ。」
なんて甘美な言葉。
彩。サイ。さい。そう呼んでくれるんだって。俺だけの名で。
俺はなんにもできてないしさっき飽きたって言われたばっかりなのに
この人はもう俺に清潔な暮らしと服と名前なんかくれるんだ。くれたんだ。
「ありがとうございます。」
「それ、本心?」
はははって彼…広夢様は笑った。
「俺がこきつかってやるほど呼ぶって言ったんだよ?」
ってもう一度笑った。理由を聞いても感謝を覆す気持ちはない。
「ありがとうございます。」
もう一度行ったら怪訝な顔をされた。
「あんた素直すぎてつまんないって思ったけど、
 そういうあんたを壊すのも悪くないって思っちゃった。
 彩、あんた外出恐怖症で、対人恐怖症なんだって?」
「はい。対人…は相手の情報が少しあればなんとか・・・なのですが。」
「はははははっ!超うける!たった今、彩って名前を与えられたおまえが
 自分の名前に何の思い入れもないようなおまえが 
 相手の名前知ったくらいでそれ克服できたわけ?
 そんでこうして俺の前にいるわけ?」
「名前だけじゃ…ないです。」
「他は?」
「あ、社会的評価と…か
 広夢様は社会的に優れた方である、と。」
「はははっ!こんな青臭いガキのとこが社会的に優れた方だって?って何の評価だよ?
 世間知らずもここまでなのか外出恐怖症!?」
「…すみません。俺には解りません。」
「だろーな。」
俺には世間的評価、世間的思考、そういったものが解らない、
だから人も嫌いで外出も嫌いで俺を取り巻く世界が怖かった。
怖かった?怖かった?今は違うのか?今は…今は・・・今は…今は…。
怖いというよりも俺の話をこうして聞いてくれる広夢様の存在を失うのが怖い。
「俺は、俺なんかが、あなたの役に立てることがあれば、
 生きていられるのだと思います。」
「・・・。」
「俺なんかがおこがましいことを言ってますね。」
「・・・。」
「すみません。」

くしゃり、とうつむいた頭をなでられた。
俺はうつむいていたから広夢様がどんな顔をしていたのか解らない。
バカなやつだと笑っていたのかもしれないし、
うざいやつだと怒っていたのかもしれないけれど、
その手が何故かとても暖かくて優しくて初めてのどきどきする嬉しい気持ちで
なんだか涙があふれて止まらなかった。
ああ、嬉しいってこんな感情だったんだな。ちょっと痛いんだ。
「なんで泣くかな?
 よく解んねーけど、とりあえず面接終わり!
 その汚い痣だらけの身体、なんとかするまで俺は彩に興味ない。
 そういうわけで、それまで俺の前にその肌も顔も見せないでよね。」
美しい顔でにっこり笑って彼は、広夢様は、
あっけなく俺をその部屋から追い出した。
「バイバイ。」
広夢様の部屋の前で待機していた執事の林さんが
「あの人は気紛れですが芯のある方なのですよ。
 さ、こちらへ。」
と俺の今後の住処?いや、外出恐怖症の今後の住処となる部屋へ案内してくれた。
驚くほど清潔で、息をのむほど贅沢な場所だった。間取りも広さも家具や消耗品までも。
愛されているのかと勘違いしそうなほど。必要な人間と思われているのかと勘違いしそうなほど。

あの人に必要とされたい。愛されたい。
そうなるにはどうすればいいのか全く解らないけれど。

***

15の誕生日に人間をもらった。
親も親戚も殆ど顔を合わせない環境にあるのに
こういう贈答祝は過度なほどな日常だったがこれは…?
「ありがとうございます。」と礼は口にしたもののこれは…?
とりあえず俺と執事と家政婦(通い)数名のいるこの屋敷に招き入れてみたけど
ぶっちゃけいらねえし。何に使えるっつーの?俺、何でも人並み以上にはできるんだけど?

『誕生日に人間をもらった』act1

この身の所有者が決まった。
正直こんな俺を所有したいと望む人間などいないと思っていた。
案の定、所有者たる方も、冷やかな、蔑むような目で俺を見て反らした。

「あんた、なにができんの?
 俺のペットっつーか、
 オトコ相手に性欲わくかの実験台くらいにしかなんねぇよなあ。」
ああ、まったくだ。
対人間恐怖症を克服したばかりの外出恐怖症持続中の俺にできることなどない。
所有者の彼が何を俺に臨むのか具体的には理解できなかったが役に立てるならなんでもいい。

誰か、俺が、生きている、理由を、許しを、くれないか。

「脱いで。」
部屋に行くとそう言われた。
「なにを?」
「服。全部。」
風呂にでも入るのだろうか?
そういえばこの部屋には隣接した個人用の大風呂が備わっているらしい。
「汚い身体だなあ。なにその痣?」
ああ、そうだろう。いつ付いたのか付けられたのか、痛みに鈍感な身体に
いつの間にか、いや、常日頃から与えられたもの。存在の意義でもあるような跡。
「ま、いいや。」
ぺろりと胸から乳首まで舐められた。
所有者がこんな俺のそんなとこ舐めるなんて。
「汚いっで・・・すっ」
「知ってる。」
舌先で突起を軽くつつかれた。
「はっ」
思いがけなさすぎて驚いたのと同時に言い知れない疼き。
「なに?いい反応?」
「っ!」
乳首をかまれた。痛くてじんじんしびれる。
この人は俺なんかにこんなことして楽しいのだろうか?
「へえ、色気、なくはないけどね。
 でもやっぱ汚い身体。」
「すみません。」
自分で見下ろしてなるほどその通りだと思った。
青い痣、黒い痣、赤い痣。消える前に増えた痣。
「素直すぎてつまんない。」
「え?」
「いいよ、なんか、飽きた。」
飽きた?飽きられた?
「あ…」
「んなすがるように見られてもねえ。
 とりあえず風呂でも入ってきてよ。」
「あの…」
「俺が所有者だとか言いながら
 他人の付けた痣だらけの身体ってありえないし。」
「す、すみません。」
「いーから風呂、入って来て。
 そこのドアの向こうだから。
 しっかり洗わないと、
 綺麗にしとかないと、
 酷いよ?」
「はい。」
「ごゆっくり。」
笑う彼を見て初めて気付いた。
自分の所有者は背が高くて精悍な顔立ちの美しい男だった。

***


 


『虚像7』

今日も書斎に向かう後ろ姿が見えたから
その後を追って書斎に向かった。
ドアを後ろ手に閉めて名前を呼んだ。

「ハクウ!」
「またおまえかよ。」
んな言い方しなくてもいいじゃんか。
んな言われ方したら用意してた言葉が続かないじゃんか。

「・・・なに?」
「・・・本、好きなのか?」
「うん。」
「他に好きなことないのか?」
「ないこともないよ。」
「なんだ?」
「なにが聞きたいの?
 俺がオトコが好きだとか聞きたいの?
 男だって女だって好きな人は好きだし 
 嫌いなヤツは嫌いだ。これでいい?」
「そんなこと聞いてな・・・」
白雨は読みかけの本をぱたりと閉じて立ち上がった。
「忘れてるのか記憶してないのか知らねーけど
 おまえは俺を嫌いだと言ったし
 俺はおまえに構うなって言ったよ。
 利害一致してんだから放っておけよ。」
「・・・放っておけるならおいてる。」
「はあ?」

手が、身体が、勝手に動いた。
口では警戒してても動きには警戒してない無防備な背中。
俺よりもひとまわりもふたまわり華奢で細い身体。
首なんてちょいとひねればぽきりと折れそう。
白人なんてここにはいくらでもいるってのに
アジアンのくせに透き通るような肌してんの。
青い血管が透けそうな頼りない儚い存在。

「なにっすんだっ・・・」
「ハクウ」
「なんだよどけよ。」
地下にある薄暗い本に囲まれた書斎で
俺は白雨を押し倒している。
「どくかよ。」
「なんのつもりだよ。」
ああなんて甘い誘惑。
細い首に鼻を寄せて口付けたら
白雨の体温と匂いが俺を支配した。
欲しい欲しいこの人が欲しくてたまらない。

「どうせ遥ともヤってたんだろ?
 あんたを監視下において守ってたあの人
 あんたみたいなのをいつもそばに置いてた人
 いないとき狙ってこうしてやりたいって思ってたよ。」
「・・・どういう意・・・ふっ・・・」
手首を片手でくくって押さえつけて
めくれたシャツの内側に手をいれさらにめくる。
何食って生きてんだってくらい細くて薄い身体が露になる。
「ははっ、確かにこれならヤれそう。」
「なあ、おまえ、」
この場に置いてなお名前で呼ばれない。
当然だ。白雨は俺の名を知らないのだ。
そう思うと腹立たしくなって胸の突起に手を伸ばした。
その時だ。
「おまえ、遥のこと好きだったのか?」
ノーではないイエスかもしれない。
「さあな。」
「俺は遥とこんなことしてないよ。」
そうだろうな。そんなこと知ってたよ。
「ふうん。」
「遥を独り占めしていた俺が憎いっていうんなら
 ・・・好きにしろよ。」
なに言ってんのこいつ。
「は?」

「遥はもうこの世にいない。
 俺の目の前で死んだのに
 俺は助けることできなかった。」
「・・・・自殺?」
「事故。」
「んじゃ助けるとかムリじゃん。」
「解ってても何度もフラッシュバックするくらい
 その瞬間は明確に蘇るし後悔すんだよ。」
「・・・・・」
言ってやりたいことはたくさんあるんだ。
たくさんあるんだけど全部言えなくなった。

「白雨、おまえが可愛くて仕方ないんだ。
 愛しいし俺だけ見てろって言いたいけど
 もっとたくさんのすげえもんいっぱい見て見たうえで
 俺を選んで。俺を見て。俺だけのものでいてほしいんだ。」


「やる気、失せたわ。
 つーかあの人がそんなに大事にしてくれた身体
 おまえが大事にしなくてどーすんだよ。」
「大事にしてないわけじゃない。
 ただ、おまえが遥のこと好きだったんなら、
 俺はずっと遥を独り占めしていた自覚はあるから。」
「ふざけんな。お情けかよ。
 実は俺がおまえのこと好きで
 ヤれそうな口実言い当てただけかもしんねーだろ。」
「だったら途中でやめないだろ。」
白雨は起き上がってめくれたシャツを直した。
「それに涙してくれたりしない。」
そのシャツの裾で俺の瞼を拭った。
ああ、どうりで視界が悪かったわけだ。
ああ、どうりで組み敷いてた白雨が起き上がるわけだ。

おまえは遥とそういう関係じゃなかったって言うけど
遥かはそういうのを望む関係だったんじゃねーかって
言ってやりたかったし確信があったしそのことで傷つく白雨も見たかった。
けど、俺は、たぶん、手放しで遥のことは尊敬みたいな憧れみたいなそんな好きで見てた。
だから、遥のために言わない。
最後まで白雨を守るように愛したのなら
守るように愛したままで逝ってしまったのなら
それは、その遥の想いだけは俺が独り占めしていよう。

「ああ、俺は遥のことは好きだったよ。
 いい人だったし、太陽みたいな人だった。」
「うん。」
「おまえのことは嫌いだったよすげえ嫌い。」
けど嫌いと同じだけの気持ちで好きだったし
いま嫌いの倍くらいの気持ちで好きなんだよ。
「俺は、遥のこと好きだって言ってくれるぶん
 おまえのことは嫌いじゃないよ。」
白雨は立ち上がって言った。

それからサマースクールは一週間続いた。
俺はもう白雨を嫌いだとは言わなかったし
押し倒しすような気力がわいてこなかったし
無駄につっかかりもしなかった。

白雨は相変わらず普通に本を読んでいて
たまに俺と目が合うと挨拶を交わしてくれたし
もう無駄に警戒したような視線を投げかけもしなかった。
穏やかに、けれど何かを失ったような、心に穴が空いたようなままで、
止まることなく時間は流れた。
 
「ハクウ。」
「ああ。今日でお別れだな。
 荷造りしたか?」
「もう家に送った。
・・・なあ、あんた日本に家族とかいないんだって?」
「いないけど?」
「じゃ日本にいる意味なんかあんの?」
「あるよ。」
「なんだよ。」
「大事にしたい人がいるからね。」
「恋人?」
「うん。恋人。」
胸が壊れそうなほど痛んだ。
「大事なんだ?」
「うん大事。守りたい。早く逢いたい。」
白雨にこんなこと言わすやつがいんのかよ。
なあ、遥ほどのやつに恋人の関係を求められたら
白雨、おまえ、どっち選ぶんだ?その恋人?遥?
遥じゃねーの?
聞きたいけどやっぱり聞けない。
だって遥はもうこの世にいないのだ。
「んなここさっさと立ち去りたい言い方すんなよ。」
「そうだったか?」
「そうだ。」
「あ、迎えのバス来たわ。
 んじゃ元気で。」
「ハクウ!」
「ん?」
来年も来るか?
来年はもう少し仲良くできそうなんだ。
来年も逢えるか?
来年は逢いたいと想われる俺になるから。
来年も来てくれないか?
来年はおまえと書斎で本とか読んでみたいんだ。
「おまえのこと、そんなに嫌いじゃなかったよ。」
「・・・うへへっ」
「っ!」
「あのさ、おまえの名前、教えてよ。」
「      」
「      ね。覚えとく。」
「忘れんな。」
「忘れねえ。」
「また、ここで、な。」
「そうだな。」

忘れられないほどの太陽みたいな笑顔。
遥を彷彿とさせるような燦々のキラキラ笑顔。
最後の最後に見せ付けて焼き付けて去って行った白雨。

「日本、か。」

こっちから出向くのも悪くない。
第一声に「俺、あんたのこと大好き。」って言ったらどんな顔するかな?


FIN

*****
最後までお読みくださりありがとうございました。
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BrownBetty 
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