遥と出逢って別れるまでの夏休み。
正確に何日一緒にいたなんて幼すぎて覚えていない。
何日だったとしてもそれは確かにかけがえのない日々だった。
と、今、生き延びた俺は思う。
出逢いは俺が4歳、遥が9歳だった。
気が遠くなるほど幼いなと思うけれど
そんな幼いころでも忘れられない記憶はある。
「俺のそばにはいつも白雨のいばしょがある」
そんなことを言ってくれた。
俺、遥に、あの時、あのタイミングで逢ってなかったら
あのあとどう生きていけばいいのかきっと解らなかったよ。
実母に捨てられたり
義母に切り付けられたり
それなりに苦境はあったんだろう。
物心つく前にそれが日常にあったから
それが異常だと気付かないまま過ごした。
同情されてもなんのことだか解らないほど。
殺されかけた時も
死ななかったのは
たぶんその前に遥に逢っていたから。
なんでもいいから身の危険を感じたら
走って遥のとこに逃げるんだってことだけ
そんな遥との約束が俺を救ってくれたんだ。
切りつけられても血の吹き出る肩をかばって
妹を抱えるようにして必死で逃げることができた。
遥ならそうするだろうって思いながら逃げたから
俺自身が遥になったみたいで誇らしくて力強くて
この時の状況は怖いだけじゃなくて俺の支えになった。
遥。おれのいばしょ。
切り付けてきたのは3番目の母親だった。
だから初音、妹を産んだ優しかった母親ではない。
初音が生まれてからは母親が変るまで優しい日々だった。
距離や環境の違いもあって
幼い俺はそんなに遥に逢いには行けなかったけど
たまに逢えた遥は「いま、楽しい?」って聞いてくれて
俺が「うん、楽しい。」って答えると「そーか!」と笑った。
2番目の母を追い出して3番目の母が来たのは俺が9歳初音が5歳。
たまりにたまった鬱憤の矛先が目に見える形で俺たちに向かったのは
結果として俺にも初音にも良い環境の変化を引き寄せてくれたことになった。
なにも知らなかった父は(この人はいつもなにも知らない)
その状況に憤慨したという(自分にも責任があることも含め)
それがどう起点になったのか俺は知らないけど結果だけには満足だ。
初音は優しい実母の再婚に伴って引き取られることになった。
初音が嫌がって泣いたことは今でも鮮明に覚えている。
「はくーは?はくーもだよね?」
俺の引き取りは実父が応じなかったそうで
「はくーが行かないならハツネも行かない!」
俺の服の裾を握って泣き出す初音は可愛い妹だった。
初音の泣き方が異常で
「はくーがいなくなるとおなかが痛い!」
とか訳の解らない痛みを訴えだして
その泣き方や痛がり方があまりにもおかしくて
親族専属のホームドクターにかかるため日本に帰国した。
結果としてはただの盲腸であったようで簡単な手術で治った。
運命ってあると思うんだ。
母親に捨てられたのも
妹が生まれてきたのも
義母に切りつけられたのも
遙との約束があったことも
初音に付き添って帰国した病院で遙に再会するための布石だったと俺は信じてる。
じゃなきゃこんなロジックみたいな偶然に納得がいかない。
手術が終わっても初音はしばらく入院を余儀なくされて
容態に問題のない初音を俺が付き添うことで母は一度日本を離れた。
初音の退院前にまた戻ってくるらしく「私は白雨を引き取りたいの。」
と俺の頭をなでて優しく告げてくれた。それだけで俺は満足だった。
初音は歩けるようになると
病院内にあるピアノのある部屋で過ごした。
以前からピアノ教師に習っていた曲らしく、
たどたどしいながらもメロディーを追うことができた。
「あの特別室の患者さんの容態はどうなの?」
「大きな変化はないけれどゆっくりと悪化してるみたい。」
「若いのに気の毒はことね。」
「受け入れてるような表情が辛いわ。
身内の方もいらっしゃらないみたいだし。」
ピアノに夢中になるとしばらく没頭する初音を残して
外の空気でも吸おうかと部屋を出たところで会話が聞こえた。
会話をしていた看護婦が出てきた先はいちばん奥の
隔離された特別室に違いない。
どうして確かめようと思ったのか。
直見遙(すぐみはるか)
その入り口にはひらがなも記された遙の名前があった。
ドキドキしながら覗いた。
遙がそんな病人なわけがないけど
でもこんな名前でここにいるなら遙しかない。
「・・・はる・・か?」
ああ、見間違えるはずはない。
暗くて白い個室の窓際に坐っているのは遙だった。
「え?」
「俺だよ遙、白雨だよ。」
「は・・くう?」
「うん。」
「な・・なんでここに?」
「それはこっちのセリフだよ。
盲腸の手術の付きそいで帰国したんだ。」
「ああ、あそこの連中が帰国する用事なんて
この病院訪ねるくらいのもんだろうしなあ。
仕事関連は別として。」
「そうだね。
遙は病気?」
「そんなもん。」
「似合わないね病院。」
「そうだな。
で、誰が盲腸?」
「妹。」
「初音ちゃんか、元気にしてる?」
「うん。いま、ピアノ弾いてる。
遙こそ、どうなの体調?」
「うーん、今すぐには死なねー程度だ。」
「悪そう、だね。」
「よくはねーな。」
「入院、長いの?」
「白雨に前、逢ったとき以来、だな。」
「前に?去年じゃん。1年も?」
「んー、んで死ぬまでかもな。」
「え?」
「冗談、冗談。
ここの看護婦さん可愛いんだよ。」
「遙、はぐらかさないで。」
「なかなか治んねぇんだよ。
いますぐどーこーってわけじゃないから
特に誰か付き添いがいるわけでもねーんだ。」
「沙羅は?両親は?」
「使用人も含めて帰ってもらったよ。
俺のせいでこんなとこに引き止めておくわけにもいかねーだろ。
みんなそれなりにやることも生活もあるわけだしな。
つっても院内に世話係はちゃんといるけどな。」
「遙、ひとりなの?」
「ん。ちょっと暇だ。
だからこんな状態だけど逢えて嬉しいぞー白雨。」
「遙ずっとひとりなの?」
「なんだよ、白雨は逢えて嬉しくないのか?
んな、泣きそうなカオすんなよ。」
「そばに行ってもいい?」
「来い来い。
伝染る病じゃないから安心しろ。」
「そんなこと言ってない。」
全然病気なんかに侵されてる人には見えなかった。
あいかわらず背は高いし手はでかいしあったかい。
「遙。」
抱きついた所でやせ細ってるわけじゃないから
看護婦達の会話も、遙の言ってたことも、嘘っぽい。
「相変わらずちっちぇえな白雨は。」
「遙が・・・でかいんだよ。
身長また伸びただろ。」
「おー伸びた伸びた。
中1で175あんのクラスで俺だけだぜ。」
「学校、通ってんの?」
「休み休みだけどな。
特別制度で教師がここに教えに来ることで
出席日数は足りてる計算なんだぜ。」
「ブルジョワだなあ。」
「おまえが言うなよ。
お、定期健診の時間だ。
白雨、またあとで来いよ。」
「うん。
またね、遙。」
遙をあんなとこにひとり残して行くなんか
すごく嫌だったけど初音のところに向かった。
「はくー。」
「ピアノ終わった?」
「ウン。
あのね、ママから電話あったよ。」
「え?」
「いまお医者さんと話してるよ。」
「どこ?」
「なーすすてーしょん!」
「行こう。」
「あ、白雨君。丁度良かった。」
「なんですか?」
「初音ちゃん、そろそろ退院だよ。」
「たいいん?」
「おうちに帰れるんだよ。」
「ほんと?はくーもだよね?
ママと初音とはくーと帰るんだよね?」
「そうだよ。
おめでとう。」
「いつですか?」
「明後日に迎えにいらっしゃるということだったよ。」
明後日。
ずっと考えた。
それはこどもの発想とインスピレーションだけだったんだろうけど
それが俺のしたいたったひとつのかけがえのない選択だったんだ。
夜、初音が眠ったのを確認して遙の病室に向かった。
「遙、」
ちいさく声をかけたら
「来ると思ってた。
待ってたぞー。」
遙が笑った。
「遙、遙、」
「なんだ?」
「初音が退院しちゃうよ。
俺、遙と離れたくないよ。
折角逢えたのにもういやだよ。」
「・・・」
「遙?」
「ちょっとびっくりした。
白雨が何かしたいだとか
何が嫌だとか言うの初めて聞いたな。」
「遙、困った?」
「いや、嬉しいよ。
なんかおまえが歳相応に見えた。
いままで時々俺より大人に思えたから。」
「俺は子供だよ。
なんにもできない。」
「白雨にはなんでもできるよ。
俺が教えたサッカーも俺よりうまくなったじゃんか。」
「そんなのどうでもいいよ。
俺、遙のそばにいちゃだめ?
俺、遙のそばにいるにはどうしたらいいの?」
「俺の?
どうして白雨?」
「俺のいばしょは遙のそばなんでしょう?
だったらどうして一緒にいられないの?」
「なんか珍しいな。
白雨ってそういうこと言わないと思ってた。」
「いま言わないとだめだから。
遙は迷惑?」
「迷惑じゃないし嬉しいよ。
白雨がいてくれたら直ぐに治りそうなくらい。」
「ほんと?」
「うん。だけど、
それは俺と白雨だけで決められる問題じゃないんだ。」
「うん。」
「でも諦めないといけないことでもない。
やれることはやってみるよ。」
「遙、」
「白雨は初音ちゃんのお迎えが来たら
俺の病室に立ち寄ってくれるように伝えて。」
「うん!」
遙はあのときもやっぱり遙だった。
「白雨、家族になろう。」
初音の母や、父や、遙の親族や、
そういう人に連絡を取ってなにかを成し遂げたように
遙は第一声で俺にそう言った。
「かぞく?」
「俺と一緒に暮らそう白雨。
つっても俺は病院ほとんどだから
ちょっと寂しいかもだけどいいか?」
「うん。」
「んじゃ決まりな。
おまえはこれからいっつも俺のそばだ。」
「ほんとに?」
「俺はつまんねーうそはつかねー。」
「うん!嬉しいよ遙!」
「初音ちゃんにはごめんなって言っておいて。」
「うん。」
初音は泣いた。
そりゃーもう泣いた。
でもな、それでよかったと思うんだ。
俺は血のつながらない部外者だから
どうせ血がつながらない家族なんなら
ひとりで戦ってる遙のそばにいたかった。
最後に弾いてくれた上達したピアノのあの曲、
俺は死んでも忘れない。
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「温室のこどもたち」のアンサーSS。
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